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たまちゃんの出来事


⑦オートバイにまつわるetc.

我走る、故に我あり?

オートバイが好きである。
といって、別に自動二輪車という機械そのものに対して愛情を抱いているわけじゃない。

オートバイを媒体として得られる経験、出会った人たちと共有できる時間、ひとりの時間。そういうものがたまらなく好きなのだ。

今の自分にとってのオートバイとは、対照的なふたつの要素のバランスをとり、そのことによって望ましい状態に自分をおく、あるいは進歩のきっかけをつかむための道具、ってことになる。

加速と減速、運動性と安定性、集中と拡散、緊張と緩和、直感と思考、自制と解放、インプットとアウトプット、恐怖と快感、体の声と脳の声、相対値と絶対値、ミクロとマクロ、などなど・・。
風を感じるとか自由だとか、ありがちなイメージからオートバイに惹かれていったし、今でもそれはキープしているけれど、事実、それを得ようとしたらなんだかえらい地道で、面倒くさくて、労力も頭も使うプロセスが結果として必要になった。自分のように、すぐに思い上がったり舞い上がったりする人間には、丁度よい「戒め」の役目も果たしてくれたと思う(頼んじゃいないが・・。)「俺もなかなか熟達してきたかあ」などと感じはじめると、見事にその浅はかさを猛省させられる事態が次に待っているのだ。
転倒・事故・競技での結果・整備不足によるトラブル、技術も経験も精神も自分のずっとずっと上をいく人の出現。

今まで(・・のところは)幸運にも助けられて、命取りな事態をかろうじてすり抜けてこられたから、というのも、いつもバックミラーに映しておくべきことのひとつ。そうでなかったら、たまと出会えること(たまの立場えいえば”出会ってしまった”こと)もなかったのだ。
# by pochi_cb | 2005-05-02 22:25

⑥たま(妻)がガンになったとき その二

たまが、癌の手術を受けた日のこと。

この日までには、たまの癌の進行度合いや部位、今後の治療計画などについてある程度情報を得ていて、自分なりに「大きく深呼吸して、次の展開を待つ」ことが、どうにかこうにか出来そうな状態になってはいた。が、そうなったらなったで、今度は自分の責任というものについて何度も反芻して考えざるを得なかった。

身近にいながら、もっと早く気づけなかったことへの後悔。(少なくとも、癌が発生した部位については以前から不調があったことを知っていたのに)
結局、この事態とその解決に対して受動態になってしまっているふがいなさ。
そしてなにより、自分との生活・・そこから生じる彼女のストレスそのものが発病に大きく関わっていたのではないかという、疑念。

仕事・オートバイ・映画、などに関して働かせるのと同様の想像力を、最も身近で重要な存在に対して働かせるのを怠っていたのは明らかだ。

ブログ上は「ぽち&たま」だが、実際のところそんなファンシーな有り様ではない。30過ぎの男と女が初めての結婚生活をするとなれば、多少予想はしていたものの、違う人間が一緒に進むことの「えらいこっちゃ」加減といったら・・・。とにかく、お見事なくらいにすべてが違う。『価値観の相異ベストカップル』という賞があったら、まず2次予選くらいは楽勝で突破するだろう。
だから初めの頃はよく口論にもなった。
「よく話し合えば常になんらかの解決策が・・?」
おそらく、なんでもかんでも話し合いの土俵に持ってくるより、”それはそれで、そうあるもの”と認めて、多少アンタッチャブルにしなきゃいけないこともある。かっこよく言えば違いを尊重するために、かっこつけないで言えば、際限のないぶつけ合いを避けるために。「違うことの意味」やそれゆえの素晴らしさを頭では分かっているつもりでも、「我」が頭をシカトして爆走しそうになることがある。自分の「我」ってものが、一体どこまでどういう深さで存在しているんだか、自分でも分かっていない。

ぽちから見れば「なんでそういうことが気になるのか」、たまから見れば「なんでそれが気にならないのか」。些細なことでも生じるその謎を明らかにするのに毎回相当のエネルギーを注ぐのが、賢明で有意義とは限らない。なによりそんなことをしていたら身がもたぬ。んじゃ、「たまちゃんのが正しい」ということにしておこう・・・。ああ、楽になった。
ぽちはそれで楽になったが、たまはどうだろうか。表面上あつれきを起こしていなくとも、ぽちの基本的な行動パターンはそのままだから、結局たまの側の不満は解消されないままだ。それをたまが自分の中でなんとか消化することを強いていることになり、彼女の免疫系には滅法負担だったはずだ。

結局こうなって、その大切さをあらためて思い知らされる。
愚かなパターンを、また踏襲している自分。

とどのつまり、たまが手術室に入ってから、祈ったり、願ったり、信じたり、悔恨したり、帰依もしていない相手に自分勝手な契約をもちかけたりして時間を過ごした。ああいう時間は、長い。ほんとうに。

オペが終わる。主治医に呼ばれて、たまのお母さんと一緒に説明を聞く。
話しを聞き、ひとまずは、ほっとする。
金属のバットに、摘出された部位が置かれている。
「たまを幸せにしたい」
そう誓ったり決意したりしたことが複数回あるはずなのに。ところがどうだ、それどころか、目の前に取り出された彼女の一部が、ぽちがたまに与えてあげた唯一のものだとでもいうのだろうか。これがパートナーシップの成果?
そう思うと、視線を上げることができなくなった。
# by pochi_cb | 2005-05-02 01:36

⑤大きな黒い口

あんまりといえば、あんまりだ。

このブログを書いている時点で発生から5日経った、JR福知山線の事故。

また、黒い口が、背後からいきなり人に襲いかかって暴れている・・・。
ある人自身、あるいはその周りの人々にとって不可分で不可欠のものが、なんの予告もなしにいきなり吸いこまれていく理不尽なブラックホール。

事故に遭遇してしまった人の家族・友人、自ら救助活動に参加した人達の、『かろうじてコメントする、しかしそうとでも言うほかない言葉』を聞いていると、泣きそうになってしまう。単におやじになって涙もろくなっている、というわけでもなさそうだが。

当事者の怒りやら悲しみやら・・を理解するなんてのは難しい。できっこない。けれどもなにかを想像し、どこかで共鳴を始めてしまう。

昔はそういう共鳴は、(少なくとも自分と直接関わらない人の身に起きたことに対しては)あまり起こさなかった気がする。今だって、覚醒している時間の90%以上は自分のことしか考えてないし、イラクで頭を吹き飛ばされた子供の亡骸を抱いて嗚咽している父親とか、災害で人生そのものを無くした人とか、を映像で見ながらご飯を食べたりビールを飲んだりしている自分もいる。そしてニュースそのもへの”やりきれなさ”みたいなものと、自分に対する違和感を同時に感じることも多い。

それでも、自分の感じ方、「アンテナ」の作用する深度と範囲は、以前に比べて確かに変化した。こういう共鳴が自分の中で起きるようになった理由をあれこれ考えるとき、過ぎた出来事や、ふだんはまず思い出すこともないような経験が、自分に与えてきた影響の大きさに唖然とする。
# by pochi_cb | 2005-05-01 00:24

④メモっ手

出張で新幹線を利用するため東京駅に向かう、京浜東北線。4月のとある朝。

途中の駅で若い女性が乗ってきた。大学生らしい。
意志の強そうな目、あどけなさとキリッとした清楚さを兼ね備えた、つまり、その・・コホン!可愛いらしい人。だが、彼女に視線が吸い寄せられたのにはもうひとつ理由があった。「学生」と判断した理由もそこに書いてあったのだが、つり革につかまるその人の手の甲に、ボールペンで書いたらしい文字がくっきり。
『英数・文理テスト 42B』
これ自体はそう珍しくはない。僕自身も子供時分にそんなことをした記憶があるし、サラリーマンでも時々やっている人(というより手)を見る。電車の中などでそんな人(手)を見つけては、「そうか、この人は明日見積もりを出さなきゃいけないんだ。ご苦労様です」などと思っている。とっさに書くモノが無かったか、忘れないためにあえてそこに書いているか。携帯電話や電子手帳を持っていても、いちばん目について忘れなさそう、という意味で思わず手に書き付けてしまう。

しかしこの綺麗な女子学生の左手には、なんと他にも「予定」がびっしり!だったのだ。いくらなんでも、そこまで手に書くかい!!っていうほど・・。見た目のキュートさと、左手のイメージギャップが、こんなにも魅力的なものだなんて!しかも朝である。ということは、これらの重要事項は何日間かこの左手フォルダに保存されているということだろう。しかし、それをお風呂や朝の洗顔で削除しない理由とは?謎は深まる・・・。

「耳なし芳一」は耳にだけ般若心経を書き付けてもらい忘れ、武者怨霊に引きちぎられてしまったが、彼女はその左手だけ書き付けたバージョンである。
ああぁ、「メモなし芳子」・・・。

こういう人の需要が見込めるので、どこかの社で、「スケジュールナビ」を売り出したらいかがだろう。オウムでもドラえもんでも、テディベアでもいい、キャラクター型の小型ロボットで、肩に止まらせておけるヤツ。重要なスケジュールなどはこのロボットがメモリーしてくれ、管理もやってくれる。大事な予定の前日・1時間前、といった任意の時間毎に、耳元でささやいてくれるのだ。「今日は部長達とビジネスランチの日だよー。飯がうまくないかもしれないけど頑張ろう!」とか、「18時ショー君、19時タナベ君とデートの予定組まれてますけどォ、ダブルブッキングちがいますかぁ。どっちかにしなはれ!」とか。

もちろん、僕には不要かつ無駄である。「スケジュールナビ」を家に置き忘れてくるのが確実だからだ。
# by pochi_cb | 2005-04-27 23:58

③妻がガンになったとき

たま(妻)から彼女の病気が癌であることを告げられたとき。

それは去年のことだ。たまが自分のブログに書いていたごとく、ぽちも「さすがに凍り付いた」。だが厳密には「凍って」いたのはほんの一瞬で、次にはありとあらゆる思念が頭の中でえらい音をたてて渦巻きだした。

後悔・不安・怒り・・その他もろもろが、さしあたり「恐怖」の2文字に集約されていく。大きな黒い口がいきなり、目の前に出現する。ぽっかりと。

「おまえの人生、自分が主人公のつもりでいるんだろうが、なんでも思い通りにコントロールできると思ったら大間違いだ」

黒口野郎のあざけりが聞こえる。

前にも、こいつに出くわしたことはある気がする。たぶん、生きていくうえでその存在に畏怖の念を忘れてはならないのだろう。かと言って恐れおののくのではなく、それでもいいことを信じて、せいぜい謙虚かつ前向きに生きることができれば。そう頭では分かっていながら、なんの準備も対処もできない自分に腹が立つ。

たまからそれを知らされた翌日、バクバクバクバク、変な心臓のまま仕事に取り組みながら、なんとか隙をみつけ、収拾のつかない渦巻き状態の自分の頭に無理矢理、別の導線を差し込んだ。「たとえ俺がどんなにパニックを起こして苦しんだところで、なんの役に立つ?それでたまの癌が治癒するのか。とにかく、自分は何ができるのか、なにをすべきか考えよう」

まず、たまが余分なことに神経を遣わず、治療にのぞめるようにすること。そして出来る限りたまを笑わせること。とっても馬鹿みたいだが。
ぽちから見て、たまは至極真面目な人間だ。自分を律して、あるべき姿で生きようとするタイプ。だがそれだけに、自分を解放するのは上手ではないようにも思える。(逆にたまから見れば、ぽちは自分を解放しっぱなしの野良犬ということになるのだが・・・)ひとつのことにフォーカスすると、そこにはまってしまい、安易に「ま、いっか」とはできない性格かもしれない。気質的に癌になりやすい人、なりにくい人がいるとするならば、おそらく、前者。それ以外にたまが癌に見舞われなければならない理由なんて、僕は見つけられない。それでも理由としてはひどく不十分で、到底納得できるものではないが。
僕のそれとは比べモノにならないくらいの恐怖や不安、混乱がたまの中にはあるはずだ。彼女が「怖い、怖い」と言っているとき、いっしょになって「怖いね、怖いよね。でも頑張ろうね」と言ってそれを分かち合うのも、ひとつの有り様かもしれない。でも僕の役目は違うような気がした。たまと彼女の母親があまりにも深刻なそれと向き合っているとき、僕までそれにシンパサイズしてしまっては、家の中は暗くなり過ぎるんじゃないか。救いがないのではないか。ましてたまの性格では、僕が少しでも落ち込んだそぶりを見せたりすれば「ごめんねぽち君」などと逆に気遣いさせてしまいかねない。それはあまりにも駄目だろう。
笑うことによって免疫力が向上し、場合によっては癌細胞が縮小したり増殖の速度が低下したりするという研究もある。考えてみれば自分らは変な生き物だ。「思いつめる」だけで病気にもなれるし、「ああ、いやだなあ」と感じ続けて胃に穴を空けることもできる。ならば、彼女の免疫力を低下させないためにも、僕には僕の役回りがあるのでは?苦しみや不安を取り除くなど、及びもつかないが、少なくとも空気が暗く澱みかけたとき、ひと風吹かせる。少しでもよい方向にいくように。その可能性をちゃんと見ていられるように。もし、かろうじて自分に人間としてのパワーというものがあるのなら、それくらいの役には立って当然だろう。ふだん要らんことにあんだけエネルギー注いでんだからさ。

しかしやれやれ、なにをすべきか、と必死に考えて、こんな程度か。情けないね。
それからしばらくの間、夜寝ているたまの額やお腹に手をやっては、やはりこんなことを念じずにはいられなかった。「たまの癌を消してください。それが無理なら、大きさを半分に、それも無理ならたまの子宮癌をぽちに入れ替えてください、肺癌でいいですから。お願いします。そういう魔術、もしくは薬を知っているなら売ってください。貯金はたいしてありませんが、いくらだろうと働いて返済します」
# by pochi_cb | 2005-04-27 00:13




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